阿部薫
1949年、川崎市に生まれる
17歳で高校を捨て、新宿で青春を生きた
アルトサックスの奏法と理論を、ほとんど独学で構築
19歳のとき、川崎のジャズ喫茶でデビューする
以来、つねに屹立する音と魂とで
日本フリージャズ史に独自の光跡を刻んだ
1978年、精神の極北へと飛び去る。29歳」
阿部薫はフリージャズのサックス奏者である。他のミュージシャンはオーソドックスなジャズから
スタートして、少しずつフリーに近づいていったのだが、阿部の場合は最初からフリー・ジャズ
からスタートしている。音は他のアルト奏者のような甘い感じではなく非常にハードである。
地鳴りのようなフリーク・トーンと童謡、歌謡曲、チンドン屋から影響を受けたような
日本的叙情を感じさせるフレーズが特徴。従来のジャズからの影響はほとんど感じられない。
小説家の鈴木いづみと結婚。破天荒な夫婦生活は後に稲葉真弓によって小説化され
さらに若松孝二によって映画化された。映画「エンドレス・ワルツ」は鈴木いづみを広田玲央名、
阿部薫を町田康(当時は町蔵)が演じた。
阿部薫伝説
・ 阿部は生まれてすぐに自家中毒症になり、胃液や血を吐き、生死の境を彷徨う。
・ 少年時は新宿で詩の立ち売りをしていた。
音楽はチャーリー・パーカー、エリック・ドルフィー、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマン、
アルバート・アイラー、セシル・テイラー、マリオン・ブラウンなどフリー系の音を好んで聴いていた。
文学・哲学・思想の本をよく読んでいた。デリダ、ハイデガー、セリーヌ、などを
好んで読んでいたようだ。映画「エンドレス・ワルツ」では町田康演じる阿部薫が
アルトー「ヴァン・ゴッホ」やセリーヌ「夜の果てへの旅」を朗読したり、
ジャズ・クラブでうんちく垂れるバカ客にデリダの「声と現象」を
渡して「勉強しろ」と説教するシーンがあった。
・ 小さいころ病弱だったので、ボクシングのジムに通っていた。
高校時代にプロボクシングのジムの会長が家に訪ねてきて、「パンチ力が凄いので
ぜひプロに育てたい」と誘いがあった。
・なんとあの坂本九といとこ同士。なぜかこの事が語られることは少ない。
坂本九は阿部の葬儀にも参列していた。
・阿部のサックスは自分で改造したもの。一回吹くたびにチューニングしなおさなければ
使い物にならないという。吹いてる途中で空中分解したこともある。
リードはリコーの4番など硬いものを使用していた。
阿部薫 名言集
下の発言を読むと、阿部って、板垣恵介のマンガに出てくるキャラに通じるものがあるな。
・「エリック・ドルフィーを父親とし、ビリー・ホリディーを母親として俺は生まれた。
そして俺はエリック・ドルフィーを俺のアルトの演奏によってどうしても超えなければ
ならない。それは義務なんだ。」
・「俺は静けさが爆発するところまでやる。そこではすべてが現われ俺はめくらになり、
俺を聞いた者は死ぬ。」
・「客はいなくてもいいんだ。こういう音をわかる客はいないんだ。
俺は椅子に向かって吹くんだ。それで、その椅子がふっ飛んでしまうような音を
出したい」
・「24時間、365日、ライヴをやるべきだ」
その場にいた坂本龍一は「晴海辺りの倉庫がいいですかね」と言ったらしい。
・「おれは季節を超えるスピード感を持ちたい」
・「うるせいなッ。てめえら。すこし、だまってろッ。」
演奏中に喋くっていたアベックに怒鳴る阿部。映画「エンドレス・ワルツ」では
町田康演じる阿部が客にグーパンチかましていた。
・「高木さんには隙がある」
高木元輝、豊住芳三郎のデュオに加わって演奏。ステージが終わったあとのセリフ。
当時、日本の前衛ジャズ界で阿部と並ぶサックス奏者だった高木に対抗心メラメラの阿部は
高木に絡みまくる。エンディングの音を高木が決めても、阿部は挑戦的に吹きかける。
仕方なく高木も演奏続行。やっと演奏が終わって高木は「あれじゃ、音楽にならない」とグチっていた。
・「ミルフォードは途中で止めたんだから、奴の負けだ」
ドラマー兼ピアニストの”世界最強のミュージシャン”ミルフォード・グレイヴスと共演したとき、阿部
はミルフォードのドラムセットの前に向かい合って立ち、ミルフォードを睨みつけながら
吹き続けた。激怒したミルフォードは次の日からのスケジュールでは阿部を外せと要求。
・「アルゼンチンに行って戦争に参加していた」
「デンマークのラジオで俺の音楽が放送になったんだ」
阿部は普段からぶっ壊れていたようだ。
・「憎悪の感ていうのが、ものすごくあって、それがある程、僕は良い音が出せると思うし」
・「一音そのものを、とことん解体してやる」
・「俺はアルトになりたい」
・「演奏者というのは、楽器を持っている。そして音を出す。それだけで特権的な
存在なんだ。僕は、その特権性を殺したい」
・「今、僕は消音作業にとりかかっている」
・「ぼくは誰よりも速くなりたい
寒さよりも 一人よりも、地球、アンドロメダよりも
どこにいる、どこにいる 罪は」
・「僕はぶざまなものが好きだ」
・「僕の音楽は胎盤さ。コミットするんじゃなくて生殖だ」
・「強力な雑音にはスピードがない、・・・地球の動振動とロープされている」
・「私の発するものしか音とは言えんのだっ」
・「愛の欠如が美しいのだ」
・「私のアルトによって全物質は一度死滅し、私という音楽の新しい秩序のもとで
配列されたのち新しく生まれてくるべきなのである」
・「俺が吹けば、5分で、茶碗も法政の学館の窓も全部割れる」
・「音楽は何も生産しない。それが強みであり弱みである」
・「ある直径の土管に長さが(略)、その土管の中に一方からある周波数の音を
相当のボリュームを上げてドンと発射してやると、そいつが土管の中を抜けながら、
向こうに行って、これは脳細胞を破壊するんだ。今度やってみようか。」
阿部は音で人を殺すことを考えていたらしい。
・「彼と演奏して、私はいままで誰とやっても感じてきた、自分の演奏が罪なのではないか、
方向が間違っているのではないか、という疑問の答えを得れたと思った。デレクと
演奏して罪ではないとはっきり確信できた。それが本当にうれしかった。」
デレク・ベイリーとの共演後。
・「お詫びの演奏をただで聴かせる、あなたたちは幸運だ」
明田川荘之の「アケタの店」に阿部が出演。ピアノ演奏後、ピアノをドライバーで破壊。
明田川は電話で抗議し、阿部は申し訳ないと再び来店。阿部は店のピアノの消音機を再び
ドライバーでダメにし、鍵盤を肘打ちで折っていった。
・「音は出てた」
ライヴハウス”騒”での不思議な出来事。 ”実際に音が出てないのに、そこに音が在る”。
演奏中、阿部が楽器をくわえて、じっと立っている。しかし、一部の人には音が聴こえるらしく
客席がざわつく。”騒”のママは疲れすぎで、ありもしない音が聴こえてるのかと
思ったらしい。しかし、演奏後、阿部に確認すると、音は出ていたと答えた。
ママがどういうことか説明してくれと食い下がると
「時間。時間てわかる?それがわかれば答えが出るヨ」とだけ言ったらしい。
永遠の謎である。
年譜
1949年 5月3日 神奈川県川崎市に生まれる。
1952年 3歳 紫斑病となり生死の境をさまよう。
1956年 7歳 4月 川崎市立川川崎小学校入学。
1962年 13歳 4月 東京都目黒区にある私立サレジオ中学校入学。
1963年 14歳 川崎立川中学校へ転校。
1965年 16歳 4月 神奈川県立橘高校入学。
高校時代、横須賀のベースで黒人たちとジャムセッションを重ね、腕を
磨く。
「プロボクシングのジムの会長に誘われ、一時期、ジャズプレイヤーに
なろうか、ボクサーになろうか、迷ったことがあった。」
1966年 17歳 夏 北海道を放浪する。
「彼の悩みは深くて暗かったに違いない。その因は様々あろうが、むしろ
それを確かめるため、阿部は1966年夏、最果てをめざして礼文島に
旅行した。17歳のときである。聞くところでは北海道へは川崎から
貨物船に乗って渡ったそうだ。そのとき小説を書くといって、
原稿用紙を何百枚か持っていた。もう悩みは、彼の内部で徐々に実体を
顕わにしていたのだろう。あるいは精神の極北をめざして、彼は北の
島に向かったのかもしれないが・・・」
(村上護「NORD」ライナーノーツ)
1967年 18歳 高校を2年で中退。
この頃から本格的にアルトサックスに取り組む。
1968年 19歳 川崎市南町にあったジャズ・スポット「オレオ」にデビュー。
1969年 20歳 秋 沖至、豊住芳三郎、吉沢元治と出会う。
12月 <山下洋輔トリオ>への参加要請を拒否。
1970年 21歳 4月 この頃、間章との交友が始まる。
6月28日 新宿厚生年金会館小ホールにてコンサート
「解体的交感=ジャズ死滅への投射」に<高柳昌行ニュー・ディレクション>
として出演。「解体的交感」としてレコード化される。
夏 この頃から<山下洋輔トリオ>によく乱入する。
1971年 22歳 秋~冬 ソロでの活動が中心となり、地方への出演が多くなっていく。
1972年 23歳 春~夏 渋谷「プルチネラ」へのソロ出演が続く。
1973年 24歳 3~4月 「彗星パルティータ」の録音に取り組む
春~夏 新宿「ピット・イン・ティールーム」、渋谷「プルチネラ」への
ソロ出演が続く。
夏 鈴木いづみと出会い、婚約。
1974年 25歳 8月16日 庄田次郎、灰野敬二らと「軍楽隊コンサート」を開催。
1975年 26歳 10月18日 青山タワーホールにてソロ・コンサート「なしくずしの死」
を開催、レコーディングされる。ゲストに吉沢元治。
1976年 27歳 4月 長女誕生
5月 新宿「東夷」にて近藤等則、坂本龍一、吉沢元治、小杉武久と共演。
1977年 28歳 この年、鈴木いづみと離婚。
ミルフォード・グレイヴス「メディテイション・アマング。アス」の
レコーディングに高木元輝、近藤等則、土取利行とともに参加。
1978年 29歳 4月12・13日 渋谷「西部劇場」での「デレク・ベイリー・コンサート」
に高木元輝、近藤等則、吉沢元治、土取利行とともに出演。
8月5日 吉祥時「羅宇屋」8月13日「グッドマン」にて豊住芳三郎との
デュオでライヴ・レコーディング。
8月28日 札幌「街かど」にソロ出演。
9月8日 東京都中野区の中野病院に入院。
9月9日19時35分 急性胃穿孔のため同病院にて死去。
以上,摘自豆瓣。
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